素敵っぽい奥様

素敵な奥様っぽく擬態して暮らしてます。

昭和52年生まれのわたしがじいちゃん家と夏休みの思い出とか語ろうと思う

父方の祖父母はわたしが園児のころ2人とも亡くなっていて、あまり思い出が無い。

幼稚園にいるときに先生から「ぽいちゃん帰る準備しよう」と通園鞄をかけられた記憶がある。そこから父の実家に向かったんだと思う。葬式は楽しくて、集まったおじさんたちが「こんだけ生きたら充分やろう。お祝いたい」とお酒を飲んでた。わたしはまるぼうろを貰って家の周りで同じくらいの歳の子供と遊んでた。まるぼうろがおいしくて、もっと欲しいなと思った。

小学生になって「死」をわかるようになってからは、この葬式のことを思い出しながらよく死後の世界を空想してた。天国や地獄ではなくて、自分が死んだあとのこの世のこと。誰が泣いてくれるか知りたかった。他人にとっての自分の価値を知りたかったのだと思う。

 

夏は毎年母方の祖父母の家がある長崎に、福岡から車で帰省していた。

車酔いのひどかったわたしはその道中で毎回必ず吐いていた。それでも帰省が嫌じゃなかったのは、従兄弟たちに会うのが楽しみだったし可愛がってくれるじいちゃんばあちゃんが大好きだった。

じいちゃんの家は多分平屋に後から2階を増設してて、二階部分は当時20代で実家に残っていた叔母の部屋だけだった。叔母の部屋は数回入ったことがあると思うけど記憶にない。庭があって、じいちゃんはそこで菊を育てていたと思う。鉢がたくさん置いてあったから走り回れるような庭ではなくて、そこを野良猫が荒らすとじいちゃんはとても怒った。庭には雨水を溜める大きな茶色いカメがあって、その中を覗き込むのが好きだった。何もいなかったけれど。

それからばあちゃんの化粧台前に座って、従妹に髪をとかしてもらうのが気持ちよくて好きだった。ずっとやってもらってた気がする。

あとは物置になってた小さな部屋に籠って空想するのが好きで、閉め切らないようドアストッパー代わりに60センチくらいのミロのビーナスが置かれてた。この部屋がいちばん「じいちゃん家の匂い」が強かったからか、高校生くらいの頃じいちゃん家の物置にテレポートする夢をよく見てた。その頃には家族で帰省しなくなっていたから、行きたかったのかもしれない。

 

じいちゃん家の前には公園があって、桜の木が1本とブランコと鉄棒があった。桜の木の落ち葉を隣の家のばあちゃんが掃き掃除しているのをよく見た。公園に来る人が買うのか、家の玄関横にコカコーラの自販機が置いてあって、よくじいちゃんが補充してたのを覚えてる。

ばあちゃんは、トースターでパンが焼けたあともジーーーと音がしている間はぜったいに開けなかった。なんで?って聞いたらなんて答えてくれたのか、忘れてしまった。料理しながら、長崎は水が高いって話をよくしてたと思う。ばあちゃんとは一緒にお風呂に入った。志村けんのコントみたいなおっぱいをしてて、本当にあのコントみたいにへそ近くまで垂れたおっぱいを持ち上げて拭いてた。

ある年の夏、じいちゃん家のお風呂はシャワーがないから不便だみたいなことを言ったら、翌年にはシャワーが付いていた。愛され甘やかされていると強烈に実感する出来事だった。

トイレは和式で、トイレットペーパーはちり紙。ちり紙なんてじいちゃんの家でしか見なかった。

じいちゃんの家にある子供向けビデオはウルトラマンだけで、ピグモンが風船付けられるシーンを毎年みてた。レンタルビデオ店とか無かった。当時長崎はテレビもNHK含め3~4局くらいしか見れなかったと思う。ゲームも無かったからトランプで七並べとかして遊んでた。

寝る布団を敷くのは広い和室で、仏壇があって鴨居の上にご先祖様の白黒写真がたくさん飾ってあった。どれも解像度が低くて輪郭がぼんやりとしてた。

お盆には墓参りにいって、お墓で花火をするのが恒例だった。パラシュートが飛び出る花火が流行っていて、落ちてくるパラシュートを探して他人のお墓にも入っていく子供がたくさんいた。もちろんわたしもその一人だった。墓の前でヘビ花火をするのは地味だけど楽しかった。鐘楼流しの時期は爆竹を窓から放り投げながら走る車がたくさんいて、長崎のお盆は派手で賑やかで煙にまみれていた。

 

じいちゃんの家を伯母夫婦が二階建て二世帯住宅に建て替えて同居することになったのとわたしの思春期が重なってあまり帰省しなくなった。何度かは帰ったけどじいちゃん家の匂いはもうしなかったし、住居部分を分けてあるとはいえそこは伯母夫婦の家になったから。

ばあちゃんが死んだのはわたしが高校生のときで、友だちの家に泊った翌朝に母親から電話があった。早く長崎に来いって泣いて、こんな日に友だちの家にいってるわたしの間の悪さにイラついていたようだった。取り乱す母を初めて見た。

ばあちゃんは足を悪くして歩けなくなってから体調も悪くなって、入院してから会わなかった。お見舞いに行った記憶もなくて、自分でもひどい孫だなって思う。ばあちゃんごめん。

じいちゃんが死んだのはそれから10年後くらいで、前日まで元気だったのにある朝突然トイレでぽっくりだったらしい。

じいちゃんには、花嫁姿は見てもらえたけれどひ孫は抱かせてあげられなかった。葬式のあった日、家の前の公園のブランコに喪服で座った。ほんとうに小さな公園だった。0歳~15歳くらいまで毎年帰省して思い出はたくさんあったはずなのに、37歳間近のわたしは記憶がおぼろげでもうほんの少しのことしか思い出せない。長崎バイオパークとか平和公園とかにおでかけもしたけど、記憶の中心はじいちゃん家の中のことばかり。

 

みんなで囲んだ食卓とか、和室に敷き詰められた布団とか、思い出すのはそういった、毎年重ねた日常のこと。夏休みの思い出は、ほとんどそれで全部。